断食と生きる意味の座談会やりますよ
2019/10/28
生きる意味というと、一生懸命になる瞬間みたいな考えもあると思うので、
こんな写真を使ったみました。
東京六大学の法政大学 対 東京大学 の今季最終戦です。
東大のエース、4年生小林大雅(ひろまさ)の正に選手生命を賭けた試合でしたねえ。
土曜日も九回投げて、今日も九回投げました。
一時は0-4リードで自らもタイムリーを放つなど、小林ファンをわくわくさせてくれましたけど、
疲れが見え始めたあと、逆転されてしまいました。
東大がなんとしても小林に神宮での一勝をプレゼントしたいという試合でしたが、
惜しくも小林は神宮で勝つことができませんでした。
彼の最終回の打席、内野ゴロで一塁を駆け抜けた姿に胸が詰まりましたよ。
彼の胸にも四年間の思いが募ったでしょうね。
僕を沢山楽しませてくれた、彼のこれからの人生を祝福します。
小林大雅君有難う。
これからも沢山の人に刺激を与える人生を送ってください。
さて、断食と生きる意味ですが、
生きる意味は何かというと、
行動とか、目的とか、生きがいとか、仕事とか、家族があるからとか、
いろいろな考え方があると思いますが、
多分そういうのは勘違いです。
対象が自分の外にあるじゃないですか。
行動にしても目的にしても、生きがいにしても、
何々に働きかけるという対象があるんですよね。
それだと、その対象が無くなった時に自分の生きる意味も無くなってしまう。
だから対象に働きかけることは、生きる意味ではなく、
生きる意味があったうえでやったり考えたりすることなんですよ。
結果としてその行動があったり考えることがあるのは当然ですが、
結果より前に生きる意味があるんですね。
完全に生きる意味を掴むというのはどういうことか僕も
まだ分かってはいませんが、
悟りを開いた人はそれをしっかりと掴んだ人というのは疑いのないことだと思います。
悟りを開いた人というと
老子、ソクラテス、仏陀、達磨、キリスト、モハメッド、道元、親鸞、福岡正信
なんかになるのでしょうか。
そういう人達に共通しているのは自分の外に求めていないですよね。
また、自分の内にも求めたということもなさそうです。
福岡正信さんによると
「無」に突然気が付いたというんですね。
「無」が全てだった。「無」に全てがある。
自分もなければ周りも無い。もちろん情報なんかもないです。
それ一瞬の出来事だったらしいですが、
その後、彼は生き方を変えてしまって「無」に生きたようですよ。
生きている状態が既にして生きる意味と合一というような生き方なんでしょうねえ
僕はそうなっているのか自分では分かりませんが、
断食を何度もしているとちょっとそんな感覚もあるようなないような。
断食をすることで何かに気付くチャンスはあると確信しています。
そんな僕は、皆さんに気付きのチャンスを提供したくて、
断食の会をしています。
生きる意味に気付くって素敵なことだとおもいませんか。
僕は自分が気付くのもそうですが、人が気付くことにお手伝いすることでそこから
またチャンスを貰おうと思っています。
ぜひお互いチャンスを与えあいましょう。
いきなり断食といってもハードルが高いかもしれませんから、
断食野郎と「生きる意味」をテーマに座談会しませんか
来年から毎週日曜日に
神保町の老舗喫茶店の個室を借りて開催しようと思ってます。
会費は4400円+飲食代
という感じで二三時間座談会できたらいいなと思います。