麻布の手作り酵素教室-麻布酵素

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9月は22日の日曜日に開催です。

   


九月の酵素教室は16日から22日の日曜日へ日程変更します。

ただそれだけたど淋しいので落書きと少しお話を。

まず短歌
大島の
恩を返しに
今越ゆる
アララト山の
根雪は深し

僕が懇意にしている、
麻布スペースサービス社長の渡邉春吉さん。
こちらは、稼業の傍ら
麻布私塾会
http://azabu-sijyukukai.com/
にて、
経営に役立つ歴史の話を一人舞台で演じる活動をされています。
6日の演目は
「知られざるオンスマンからの恩返し」でした。

時に1985年、場所はイランの首都テヘラン。
イラン-イラク戦争が激化するなか、各国政府は自国民にイラン退去を勧告します。
出国切符を求めて各航空会社の窓口は大混乱。
そんな中、サダムフセインはイラン上空の民間機を含むすべての航空機を撃墜すると宣言します。
タイムリミットは48時間
当時在留邦人は300名ほどおり、座席を求めて航空会社と交渉するも、
各航空会社は自国民優先で売ってくれません。
当時日本航空はイランとの定期便を持っておらず、日本人は自国の足を持っていなかったのです。
隣国のトルコは600人ほどがテヘランに住んでいました。

テヘランには空爆が始まっています。いつ爆弾の餌食になるか分からない恐怖の中、伊藤忠商事のトルコ支店駐在員は時のトルコ首相、そして日本のイラン大使はトルコのイラン大使へ両面からトルコに支援要請しました。

当時のトルコの国力ではとてもそれは叶えられる仕事ではありません。
それを承知で二人は旧知の友にすがったのでした。

トルコ首相オザルは、沈思黙考。
やがて、
エルトゥールル号の恩返しですかな、
なんとかしよう、
とブイサインで駐在員を見送ったのでした。

時はさかのぼり1890年
明治の黎明期です。
時のオスマン帝国は明治天皇への親書を携えエルトゥールル号を日本に送ります。
明治天皇への親書を渡し、各地で歓待を受けた後エルトゥールル号は帰途に就くのですが、
三重県大島の海域の海域で台風の為沈没してしまいます。
大島に流れ着いた瀕死の乗組員は40メートルのがけをよじ登り助けを求めるのでした。
この時、大島の人々がとった決死の救出活動で60名以上の人命を救われます。
冷たい水に十時間も晒された身は氷のように冷えています。
せっかく陸地に引き上げ、40メートルの断崖を担いで寺まで運んだのにこのままでは凍え死んでしまいます。
村人たちは裸になって彼らの布団に入り肌に自分の体温をトルコ人に与え、必死に体を摩り熱を起こしました。
これは漁師の知恵だそうです。
そうやって60人ほどが目を覚ますことができたのです
さらにその後の遺体捜索で多くの遺体を海の中から引き揚げて荼毘にふすことができました。
日本政府も誠意をみせ、二席の軍艦で生き残ったトルコ人をトルコまで送ったのです。

この大島の救出劇はトルコの教科書に載っているのだそうです。
だからトルコ人はオスマンの末裔としていつか日本に恩返しをしようと思っていたのです。

オザルはトルコ航空に支援を求めます。トルコ航空幹部もオスマンの末裔です。
動ける乗組員を集めて尋ねます。
無差別撃墜まで後ほんの少し。
日本人を救出に向かってもよいというものは名乗り出てくれ。
乗り組み員全員が行くと挙手したのでした。
その先どうなかったは、自分で調べるなり、麻布私塾会の講演を聞くなりしてください。

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